本格的イヤミス感は久しぶり
湊かなえさんの「カケラ」を読了しました。
プロローグから,湊さんの代名詞「イヤミス」の感覚満載です。この感覚は久しぶりですね。
本書は,美容外科医である「橘 久乃」が,ある少女の死の原因を追及する過程を描いています。
プロローグとエピローグ以外は,久乃が対面する相手の独白のような形態で進んでいくあたりが,いかにも「湊流」。この書き表し方は,「白ゆき姫殺人事件」に似通っていると感じました。また,登場人物の言葉が非常にシニカルであることも,「白ゆき姫〜」と似通っており,全体的に「いや〜な感じ」が漂うのです。
自分の見た目と自己肯定感の狭間で…
本書の帯にもあるように,「美容整形」が話の中心ではあります。
久乃が訪ねる女性は,それぞれが自分の見た目に関するコンプレックスを抱えており,自分の見た目によって人生を左右されてきた…という経験を抱えています。
聞き手となる久乃は,幼い頃から美しく,周囲から羨望のまなざしを送られる立場。そんな久乃が行き着く先々で見た目に関するコンプレックスを目の当たりにする…という,実に居心地の悪い展開なのです。
幼い頃からの知り合いには,当時では言えなかったような本音を嫌みっぽく囁かれ,クリニックに来る患者にはそのドロドロとした内面を投げつけられ…。
それほど美しくない者が,何の努力もしていないのに美しくいられる久乃に対して感じているジェラシーのような気持ちが本書の底流に流れているわけです。きっとそれは,「美容」ということに限らず,無い物ねだりして自分を見失ってしまいがちになる人間の性のようなものとして描いているのでは…と感じました。
反面,皮肉なのは,本書で久乃が出会う人々は,「太っていたから,美しいから幸福とは限らない」という描かれ方もされていることです。太ってる頃の自分が本来の自分らしかったり,痩せてしまったことでつらい経験をしてしまったり…。また,美しい女性の醜い一面をえぐってみたり…。
いったい,「どんな自分」だったら,自分に自信をもち,本当の自分らしく生きられるのか…。最終的にはそん哲学的なところまで考えさせられるストーリー展開です。
加えて,それぞれに「家族」との繋がりが心を乱す源として描かれます。親や祖母への感情。夫への不信感。子への思いの伝え方…。これらに関しても,「見た目」に基づいた表現がされているところが本書の「イヤミス」的な部分。
自分にとって,見た目・容姿って何だろう。
そんな誰もが思春期に通ってきた道を,再度考えさせられるような思いでした。
「カケラ」としての自分
久乃は,容姿の細かな部分をジグソーパズルの「ピース」に例えます。
また,容姿だけでなく,個々の内面も「ピース」の形に現れると…。
その上で,「自分というカケラ」が出来上がるのだと…。
様々な形のカケラが多数集まって,家族ができ,社会ができ…。時には自分のカケラとしての形のあるべき場所を見失ってしまうこともある。
思い,悩みながらも,自分というピースの置き場所を探し求め,その場所でどのように生きるのかを考えることが大切だ…と,語っているのかもしれません。
終始「いや〜な感じ」で進むストーリーですが,最終的には,
「全てをひっくるめて,自分の身の置き方,活かし方を考えるべき」
という,メッセージを感じ取ることができました。
恐らくは,読み手ごとに「感じ取り方」は変わってくると思われる本書。
皆さんは,どのような感想をもつでしょうか?